第1部 ファン・ゴッホのジャポニスム



1853(0歳)
フィンセント・ファン・ゴッホ、オランダ南部のフロート・ズンデルトに生まれる
1857(4歳)
弟テオドルス・ファン・ゴッホ(愛称テオ)生まれる
1869(16歳)
画家の下地をつくった画商時代
グーピル画廊のハーグ支店に就職する(のちにロンドン支店、パリ支店にも勤務)
1872(19歳)
この頃から、弟テオとの定期的な書簡のやりとりが始まる
1876(23歳)
グーピル画廊を解雇される
1877(24歳)
神学部に入る勉強のためアムステルダムに移る
1878(25歳)
ブリュッセルの伝道師養成学校に仮入学するが正規入学は認められない
1879(26歳)
聖職の道での挫折
ベルギーのボリナージュ炭鉱で伝道活動を行うが、常軌を逸した活動に対して、資格を停止される
1880(27歳)
そして、画家への転向
画家になる決心を固める
1881‐85(28~32歳)
修業の年月
エッテン、ハーグ、ニューネンと転居しながら絵画制作にとりくむ
ハーグ時代の書簡では、日本に滞在した画家フェリックス・レガメに言及している
1886(33歳)
1月、アントウェルペンの王立美術アカデミーに入る
この頃の書簡で、浮世絵に対する関心を示し、浮世絵を部屋の壁に貼っている
パリへ 印象派と日本趣味
2月末、突然パリの弟テオのもとにやって来る印象派との接触
1887(34歳)
浮世絵との出会い
カフェ「ル・タンブラン」で浮世絵展を開く
ビングの店で大量の浮世絵を研究。英泉の《花魁》、広重の《亀戸梅屋舗》
《大はしあたけの夕立》の模写、背景いっぱいに浮世絵を配した
《タンギー爺さんの肖像》を描く
1888(35歳)
日本の夢、南仏に求めて
2月、日本を夢見て南仏に向かい、アルルに落ち着く
10月、「黄色い家」でのゴーギャンとの共同生活が始まる
ゴーギャンとの破局、ユートピアの崩壊
12月、ゴーギャンとの口論の末、左耳を切り取る「耳切り事件」を起こし、ゴーギャンはアルルを去る
1889(36歳)
5月、サン・レミの精神病療養所に入る
1890(37歳)
終焉の地オーヴェール 遠ざかる日本の夢
5月、パリ近郊のオーヴェール=シュル=オワーズに移る。医師ポール=フェルディナン・ガシェが主治医になる
7月27日、銃弾を受けて負傷  ピストル自殺か?
7月29日、テオに看取られて永眠する
7月30日、オーヴェール=シュル=オワーズの墓地に埋葬される
1891
1月25日、テオがユトレヒトの病院で他界。ユトレヒトの墓地に埋葬される。
1909
医師ガシェ他界。息子のポール・ガシェJr.がファン・ゴッホの作品などを引き継ぐ

第2部 日本人のファン・ゴッホ巡礼



1910
巡りゆく夢は、遠く日本へ
日本で文芸雑誌『白樺』が刊行され、ファン・ゴッホに関する記事や作品の複製図版が掲載される
1914
日本人オーヴェール巡礼のはじまり
4月 テオの亡骸がユトレヒトからオーヴェールへ移葬され、フィンセントの墓の隣に埋葬される。
山本鼎と森田恒友が初めてオーヴェールのガシェ家を訪れ、ファン・ゴッホの素描作品を見る
1921
里見勝蔵、間部時雄、硲伊之助らがガシェ家を訪れ、コレクションを見る
1922
芳名録のはじまり
本人のガシェ家訪問が『芳名録』に記録されはじめる
1929
オランダのクレラー=ミュラー家コレクションの展覧会に佐分眞ら日本人が訪れ、芳名録に名前を記す



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