ファン・ゴッホの生まれた1853年は日本では黒 船来航の年にあたります。開国した日本からは大量の美術品が外国に出て行くことになりますが、鎖国中も日本と交易のあったオランダで生まれ育ったファン・ゴッホにとって、日本美術はまったく縁遠いものでもなかったはずです。実際、ファン・ゴッホの伯父ヤンは海軍軍人としてすでに1860年代に日本に滞在しており、ヤン伯父の家に下宿していたこともあるファン・ゴッホが日本の美術品を見たり日本について話を聞いたりしていた可能性はあります。しかし、オランダ時代のファン・ゴッホの手紙には日本についての記述はまったくといっていいほど見あたりません。彼が日本と日本美術に強い関心を持つようになったのは、1886年にパリに出てきてからのことでした。

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日本美術がファン・ゴッホに与えた影響を様々な角度から検証
ファン・ゴッホが日本美術に大きな影響を受けていたことはよく知られています。本展では、浮世絵の模写、構図や色彩などの表現様式、“ユートピア”としてみていた日本のイメージの反映など、様々な角度からファン・ゴッホ作品の日本への影響をひも解きます。世界各国からコンセプトに沿って集められたファン・ゴッホ作品の中には、《タラスコンの乗合馬車》、《雪景色》など日本初公開作品もあり必見です。あわせてファン・ゴッホが日本美術に魅了されるきっかけとなった数々の浮世絵も展示します。ファン・ゴッホ創造の源泉に触れてください。




ファン・ゴッホは画商ビングの店で大量の浮世絵を見て、その鮮やかな色彩や作品としての質の高さに魅せられます。当時まだ安価だった浮世絵を集め、展覧会を開き、模写をし、肖像画の背景にも描き込みました。ファン・ゴッホはパリで印象派の影響を受け、オランダ時代の暗い色彩を捨てて明るい印象派風の作品を描くようになっていましたが、浮世絵と接することでさらに革新的な独自の絵画を生み出すようになります。後のファン・ゴッホ特有の画風、平坦で鮮やかな色面を使った画風は、浮世絵の研究を通じて生まれてきたものです。
1880年代のパリは、ジャポニスム(日本趣味)の最盛期でした。ファン・ゴッホがパリに出てきた1886年には『パリ・イリュストレ』誌の日本特集号が出され、ファン・ゴッホはこの表紙に使われていた英泉の花魁図を拡大模写して《花魁》に描き込みました。この日本特集号の中の日本紹介文は林忠正が書いたもので、日本の美しい風景の記述はファン・ゴッホにも、彼の同時代人にも、美しい日本のイメージを強く印象づけたことでしょう。おそらくこの頃から、ファン・ゴッホは日本と日本人を理想化し始めていたと思われます。そして彼は、浮世絵の中の鮮やかな色彩世界を求めて、「フランスにおける日本」にあたる南仏へと旅立つことになります。








ファン・ゴッホは1888年2月20日の早朝、南仏に着きました。この時の列車の車中での気持ちをゴーガンにこう伝えています。「この冬、パリからアルルへと向かう旅の途上でおぼえた胸の高鳴りは、今もいきいきと僕の記憶に残っている。〈日本にもう着くか、もう着くか〉と心おどらせていた。子供みたいにね。」
南仏での初日は、「60センチを超える」積雪とふりつづく雪の中で始まります。それでも、アルルからの最初の手紙にファン・ゴッホは「まるでもう日本人の画家たちが描いた冬景色のようだった」と記しています。ベルナール宛の手紙には「君に便りをする約束をしたので、まずこの土地が、空気の透明さと明るい色彩効果のためにぼくには日本のように美しく見えるということからはじめたい」と記しています。



ファン・ゴッホにとって南仏はまさに「日本」でした。「ここではもう僕に浮世絵は必要ない。なぜなら、僕はずっとここ日本にいると思っているのだから。したがって、目を開けて目の前にあるものを描きさえすればそれでいい」、「画家たちの天国以上、まさに日本そのものだ」とまで言います。夏にかけて陽光が明るくなるにつれて、ファン・ゴッホの絵も浮世絵のように鮮やかな色面で描き上げられるようになります。また、日本の画家のようにデッサンできるようになりたいと願い、葦ペンを使った独自のデッサンも数多く描き、浮世絵風の大胆な構図も取り入れました。しかし、それだけではありません。彼はピエール・ロティの異国趣味小説『お菊さん』を読んで、日本を、そして日本人を理想化していきます。



「日本美術を研究すると、明らかに賢く哲学的で、知的な人物に出会う。その人は何をして時を過ごしているのだろうか。地球と月の距離を研究しているのか。違う。ビスマルクの政策を研究しているのか。いや、違う。その人はただ一本の草の芽を研究している。(……)どうかね。まるで自分自身が花であるかのように自然の中に生きる。こんなに単純な日本人が教えてくれるものこそ、まずは真の宗教ではないだろうか。」
「日本の芸術家たちがお互い同士作品交換していたことにぼくは前々から心を打たれてきた。これら彼らがお互いに愛し合い、助け合っていて、彼らの間にはある種の調和が支配していたということの証拠だ。もちろん彼らはまさしく兄弟のような生活の中で暮らしたのであり、陰謀の中で生きたのではない。(……)また、日本人はごくわずかな金しか稼がず、素朴な労働者のような生活をしていたようだ。」
ファン・ゴッホにとって日本人とは、自分自身が花であるかのように自然の中に生き、深い思想と真の宗教をもち、兄弟のような生活をする貧しく素朴な人間ということになります。つまり、ファン・ゴッホは日本人に自分自身のすべての理想、芸術的、社会的、宗教的理想を結晶化させていきました。そしてその理想を実現すべく、ゴーガンと「黄色い家」での共同生活を始めますが、この生活は1888年12月の有名な「耳切り事件」で崩壊してしまいます。しかし、ファン・ゴッホが日本を夢見ていたわずか一年ほどの期間は、彼にとってもっとも創造力に満ち、そしておそらくもっとも幸福な時期だったと言ってよいでしょう。







「耳切り事件」の時に襲ってきた精神病の発作は、その後もたびたびファン・ゴッホを襲いました。「黄色い家」の崩壊後は、「日本の夢」も遠ざかっていきます。手紙でも日本について語ることはほとんどなくなりました。しかし、ぶりかえす発作の合間にもファン・ゴッホは描き続け、それらの作品の中にはまだなお浮世絵の影響を感じさせるものがあります。サン・レミの精神病療養所に入ってからは、庭の片隅や植物をクローズアップで描いた作品が増え、それらの何点かは日本の花鳥画を思わせます。また、アルル時代に日本の影響下に描いていた葦ペンデッサンを色彩と統合して、力強い筆のタッチを使った独自の油彩画へと発展させていきました。



南仏に心踊らせて向かった二年前とは違い、「日本」は急速に国家と現実にとりこまれつつあり、もはや「楽園」ではなくなりつつありました。
フランス政府が日本に派遣した植民地画家デュムーランは日本主題の絵を発表しはじめ、ビング は1890年に国立美術学校で大浮世絵展を開き、翌1891年には日本美術が初めてルーヴル美術館に購入されます。日本という国そのものも1889年に立憲国家になり、やがて軍事的脅威とみなされるようになります。つまり、日本はもはや「楽園」としてではなく、現実として見られるようになってきたのです。ファン・ゴッホだけではなく、多くの人々が「日本の夢」から目覚めさせられることになりました。
1890年7月28日、かつてあの屋根裏部屋でファン・ゴッホの「日本の夢」に火をつけた画商ビングは、浮世絵展の功績をみとめられ、レジオン・ドヌール勲章を授与されています。同じ日、ファン・ゴッホは、オーヴェールの屋根裏部屋で腹に銃弾を抱えたまま瀕死で床に横たわっていました。そして日付の変わった翌29日、しずかにこの世を去ります。
ファン・ゴッホの「日本の夢」はオーヴェールで画家の死によって断たれることになりました。しかし、夢は消えてはいなかった。30年余りの時が過ぎ、今度はファン・ゴッホの作品に魅せられた日本の画家たちがオーヴェールを訪れることになります。夢は終ったのではなく、時空を巡って転生していったのです。






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