総合監修者からのメッセージ





ファン・ゴッホの聖地を目指して

ファン・ゴッホの死後、その亡骸はオーヴェールの墓地に葬られ、兄の後を追うように半年後の1891(明治24)年1月にユトレヒトで没したテオの亡骸も1914(大正3)年にその隣に移葬され、以後、兄弟は仲良く永遠の眠りについています。ファン・ゴッホの死から間もない時期に、その作品や生涯を熱心に紹介したのが、小説家の武者小路実篤、画家の斎藤與里や岸田劉生、美術史家の児島喜久雄ら「白樺派」及びその周辺の文学者や美術家たちでした。熱狂の渦は徐々に広がり、大正から昭和初期にかけて、少なからぬ日本人がファン・ゴッホの生の軌跡を求めてオーヴェールへと赴くことになります。
その最初の足跡は、ファン・ゴッホの死から四半世紀近く経った1914(大正3)年に刻まれることになりますが(山本鼎、森田恒友)、この時ファン・ゴッホの最期を看取ったポール=フェルディナン・ガシェは、すでに1909(明治42)年に没していました。しかし、生前ほとんど売れなかったファン・ゴッホ作品の多くは没後もガシェの元に残され、同名の息子がそれらを大切に守り伝えていました。
《ガシェ医師の肖像》や《オーヴェールの教会》など代表作を含む20点あまりの貴重なコレクションは、後に8点が国家の所蔵となり、現在はオルセー美術館の至宝となっています。ただ、当時はパリで見ることのできたファン・ゴッホ作品はわずかであり、彼の作品と足跡に触れることを求めた日本人たちは、オーヴェールをファン・ゴッホ巡礼の地と定めることになります。
ガシェ家には、来訪した日本人の名が記された芳名録3冊が残されました。それらは現在パリのギメ東洋美術館に所蔵されていますが、本展の第2部では、これらの芳名録を日本で初めて公開し、1920年代を中心に近代日本の知識人たちによるオーヴェール巡礼の実相を紹介します。

CHECK!

日本初公開!ガシェ家に残された3冊の「芳名録」
ファン・ゴッホの死後、彼が眠るオーヴェールの地で20点ほどの作品を大切に所蔵していた医師ポール=フェルディナン・ガシェとその一家。ファン・ゴッホに強い憧れを抱いていた日本の学者や芸術家たちが後にそのガシェ家を訪れ、『芳名録』に名前を残したことがわかっています。本展では、日本初公開となるフランスのギメ東洋美術館所蔵の『芳名録』を軸に、里見勝蔵、佐伯祐三、斎藤茂吉、式場隆三郎ら当時の日本人の視点からも、“時代”と“国境”を越えたファン・ゴッホと日本を巡る夢の変遷をたどります。



芳名録Ⅰ:初編 1922年/17.3 ×14.0 cm/26名署名

1922(大正11)年の訪問者を証言する1冊目の芳名録に最初の記念すべき署名が記されたのは3月9日、それは画家・黒田重太郎によるものでした。7月には白樺派の児島喜久雄が、9月には画家の中澤弘光や間部時雄ら、美術関係者の訪問が記されています。中澤と間部は、ともに現地でスケッチも描き、詳しい訪問記を残しています。しかし、日本の画壇への影響という点で重要な役割を果たしたのが、彼らに続いた里見勝蔵でした。
里見は、日本の近代絵画史において色彩表現の可能性を追究した画家のひとりです。20世紀初頭のフランスで展開したフォーヴィスム(野獣派)を代表する画家で、当時オーヴェール在住のモーリス・ド・ヴラマンクに画家・佐伯祐三を引き合わせたことでも知られています。本場フランスのフォーヴの画家たちも大きな影響を受けたファン・ゴッホ作品と直に出会えたことは、色彩表現の革新を推し進めた日本のフォーヴ運動にとっても、重要な意味を持つ出来事でした。ファン・ゴッホの実作を目の当たりにし、生前のファン・ゴッホを知るガシェの息子ポールから聞く話は、それまで雑誌『白樺』等を通じて得ていた画家像をより具体化させる契機となりました。本展では、中澤がオーヴェールで描いたスケッチや旅日誌、里見と間部の現地での交流関係を示す写真や手紙などの貴重な資料によって、初期のオーヴェール巡礼の様子を紹介します。




芳名録Ⅱ 1922ー28年/23.0 ×23.0 cm/141名署名

最初の日本人訪問が記された1922(大正11)年以降、20年代にオーヴェール巡礼を行う日本人は次第に増加してゆきます。2冊目の芳名録では、日本におけるフォーヴ運動をリードした一九三〇年協会から独立美術協会へと至る過程で、その中心的な役割を果たした前記の里見勝蔵のほか、佐伯祐三、前田寛治、小島善太郎ら洋画家の署名がまず目を引きます。その一方で、巡礼を行った者たちには、土田麦僊、小野竹喬ら国画創作協会の中心メンバーとなった日本画家たちもいました。
近代ヨーロッパ絵画の表現を積極的に摂取し、清新な日本画の創造を目指した彼らにとって、セザンヌやファン・ゴッホ、ゴーギャンに代表されるポスト印象派の芸術は大きなインスピレーション源となっていました。油彩画であれ、日本画であれ、その表現手法は異なっても、強烈な色彩表現を見せるファン・ゴッホの作品は、若い日本人画家たちにとっては、近代的な自我に目覚めた芸術家としての規範ともなったのです。本展では、佐伯の《オーヴェールの教会》や前田の《ゴッホの墓》など、巡礼から生まれた日本近代絵画の名作のほか、写真や手紙などの豊富な資料、さらには日本画家・橋本関雪がガシェ家訪問を記録撮影した極めて貴重な動画も紹介します。



芳名録Ⅲ:出頭没頭 1929-39年/19.0 ×27.0 cm/94名署名

1929(昭和4)年から10年間に渡る訪問を証言する3冊目の芳名録では、30年代から戦後にかけて日本におけるファン・ゴッホ受容に最も重要な役割を果たした人物の名が登場しています。それは、精神科医にしてファン・ゴッホ研究に生涯を捧げた式場隆三郎です。ファン・ゴッホの精神疾患に関する論文で学位を取得した式場は、数多くの研究書、書簡集の翻訳、複製画による展覧会、版画家・奥山儀八郎の協力による複製版画制作などの活動を通じ、ファン・ゴッホの芸術と生涯を世に広めるのに多大な影響を及ぼしました。同じく精神科医で、ファン・ゴッホを敬愛した歌人・斎藤茂吉の薫陶も受けた式場は、精神科医としての関心の範疇を大きく超えて、研究や紹介にとどまらず、日本におけるファン・ゴッホ神話の形成に重要な役割を果たしてゆきます。本展では、式場からガシェに贈られた書籍類や手紙、写真などによりガシェ家との交流関係を紹介し、日本におけるファン・ゴッホ受容の一端を紹介します。



クレラー=ミュラー・コレクションへの巡礼

作品だけでなく、次第に伝説化、神話化されてゆくファン・ゴッホの生涯そのものも、新しい芸術の創造を目指し、苦悶する近代日本の芸術家たちの精神的な拠り所となりました。そして、それは美術の世界に止まるものではありませんでした。もともとファン・ゴッホに熱狂した白樺派の人々は文学者が中心であり、作品以上にその悲劇的な生涯への関心が強かったことが、日本でのファン・ゴッホ受容に見られる特質となっています。ガシェ家の芳名録では、歌人・斎藤茂吉の署名(1924年11月2日)がその象徴的な存在といえます。精神科医でもあった茂吉は、医学研究のためヨーロッパに留学しますが、西洋美術、とりわけファン・ゴッホへの関心を深めてゆきます。オーヴェールで茂吉はファン・ゴッホをテーマに歌も詠んでいますが、これは、全集未収録の知られていなかった作品です。
オーヴェール巡礼に先立つ9月には、当時まとまったコレクションを形成していたオランダのクレラー=ミュラー家のファン・ゴッホ作品を見るため、茂吉はハーグにも足を運んでいます。実業家アントン・クレラーの妻ヘレーネが収集したそのコレクションは、今日、オッテルローのクレラー=ミュラー美術館で公開されていますが、1920年代、ハーグにあった会社の本部でファン・ゴッホ以外の作品も含めて公開の機会があったのです。
1929(昭和4)年に公開された際の芳名録にも、画家の荻須高徳や佐分眞ら日本人の名前が散見され、オーヴェールに加え、もうひとつのファン・ゴッホ巡礼地となっていたことがわかります。本展では、このクレラー=ミュラー家の芳名録や当時の展示風景写真、展示目録など貴重な資料を紹介します。




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